ぷにっこ学術日誌+

ぷにっこな学術日誌です。

人それぞれ言葉に出来ない「あの感じ」があると思う。

今で言うならイオンのヒートファクトのCMを見たときのあの感じ。
ちなみに内容だが疾走感あるポップソングにのせて、
美しい女性がやさしく微笑んでダンスを踊ってる。
http://www.youtube.com/watch?v=hFuAzjQbJ18

もちろんかわいいとは思うけど、
それ以上になんだか絶望的な気持ちになるんだよね。
夕方を少し越えた夜6時半頃に、電気をつけず窓際でこの映像を見ている感じになる。
この世で一人になった後、この映像を繰り返し再生している錯覚に陥ってしまう。

玄関からは決して見えない位置にテレビと俺。
外は暗いのに、カーテンも閉めないままで映像に食い入っている俺。
外から音は聞こえない。
もちろん部屋の中でも、映像の音声以外は響いていない。

色々言い換えているけどたぶん全然伝わってないな。
いいんだ、どうせどれだけ工夫しても伝わらないから。
でも俺をこういう気持ちにさせる映像が世の中には結構あるんだよ。
なんなんだろうね。
こういうあいまいな気持ちを上手く言葉にして文章に結合できる人間が、
たぶん「作家」と呼ばれる文章のプロたちなんだろう。

じゃあ作家は自分にとってよくわからない気持ちやらなにやらを、
少なくとも表現するほどには理解しているということか。

言葉を操れば世界が広がる。
「あの感じ」を言葉にすることができれば俺の世界ももう少し広くなるだろう。
書くことは生きることなんだ。
考えて、書いて、世界を広げ、その世界で生きる。

その媒体が紙だろうがwebだろうが、
プロだろうがアマチュアだろうが構わない。
生き続ける限りは書き続けるのだ。
より多くをより深く知るために。




僕らが仮に共同戦線を張るとして・・・
(まあ共同戦線でも張らない限りこの社会では逆転が難しいからなのだが)
人的コストや時間的コストや金銭的コストを各人がシェアするモデルになるだろう。
そうすれば各人がそれぞれ微小なコストを負担するだけで大きなプロジェクトが動く。

まあ、こんなことは誰でも言える。
問題は全員が動くような目標の設定と、
それぞれのコストの負担比率と成果の分配比率の設定だ。

しかしながら、上記の比率問題が解消されても新たな問題が生じてくる。
それぞれが一回限りコストを負担するだけで終わることはありえないため、
継続的に管理する方法、つまりプロジェクトの進捗管理をする必要も出てくるだろう。

大きなプロジェクトであるほど、
それに紐付く小さなプロジェクトを同時並行で走らせる必要がある。
幹のプロジェクトは枝や葉のプロジェクトによって支えられている。
プロジェクト管理は以外に大問題だ。
プロマネの試験が難しい理由もよくわかる。

さて、では「何をしたいか」という共同戦線の目的であるが、
これはもう皆の多数決で決めればいい。
ほんとに何でもいいと思う。ただ、皆がある程度コミットできなければ駄目だろう。
もし能力が追いつかないなら、それは学習で埋め合わせを行えばいいだけだ。
メンバーの中に一人も習熟者がいないなら、外注するという手もあるだろうが、
資金がないなら時間はかかるがシェイピングとチェイニングでなんとかなるはず。

ここまで、わりと完璧に見える。
明るい未来が開けているように見えなくもない。
ただしそれは見えるだけに過ぎない。
実際にやって見ればわかるが、これだけでは失敗するんだ。
ではいったい何が必要なのだろう。何が足りてなければいけないのだろうか。

答えは簡単。当事者意識だ。当事者意識が欠如している人間には何もできない。
少なくとも仕事はできないと断言する。
自分が任されたことに対して当事者意識を持って取り組むこと。
各メンバーにこれができなければいくら進捗管理をしても無意味だ。

整理すると、まず目標があり、それに各人がコミットし、当事者意識を持つ。
そして役割を決め、コスト比率や分配比率を決め、期限を決めて進捗管理をする。
骨組みなんてこれぐらいのもんだ。
でもこれぐらいのことを誰も出来ない。

なぜできないのか。なぜだろう。
理由は無限に思いつくからどれだかわからん。
この青写真が甘いっていうことなら、すぐに直せるのだけれど。

まあ俺が言いたいのはさ、
せっかく皆さん優秀なアタマを持ってらっしゃるのだから、
それを生かせばいいのにもったいないってことでしかないのよ。
あと、どうせ嫌な仕事なら自分のために仕事しようぜってこと。
俺が言いたいのは結局のところそんなことだけだ。


自分の優秀さを武器に世間と派手に戦いたくはないのか?
結果は勝ちでも負けでもどっちでもいいよ。
優れていれば勝つけど、負けたっていつか勝てばいい。

勝負しないまま負けるのは嫌だなあ。


映画の「ヴィトゲンシュタイン」を見たんだが、いまいちだった。

ヴィトゲンシュタインを知ってる人間には物足りないし、知らない人間には意味不明。
あと、一目でわかるほどに低予算で陳腐な映像も気にかかる。
黒い背景に小道具と役者だけ。
そりゃあ小道具や役者は場面ごとに変わるけど背景はずっと黒いまんまだ。
舞台かよ。いや、舞台でももう少しましだわ。

内容はヴィトゲンシュタインの思想にそこそこ触れている。触れてはいる。
でも普通、哲学書の内容をいきなり喋られたって理解できんだろう。
理解に時間がかかっている間に次のシーンにいっちゃう。
それでいて教材になるほどの言葉をチョイスしているわけでもない。
どう対応すればよいのやら。

褒めるところがあるとしたら、
ヴィトゲンシュタインの狂気染みた知的誠実さはそれなりに描いているといえよう。
しかし、描いてはいるがやはりどこか中途半端。
トータルで70分くらいしかないから尺の都合をいい訳にはできない。

どうせなら何かテーマを絞ってそれに全力注げばわかりやすかったのに。
「ヴィトゲンシュタイン」という人間全体を描こうとし、結局失敗した感じ。
何を誰に伝えたいのかというメッセージがないのだ。
有名な監督らしいが、メッセージのなさっていうのはテクニックではカバーできない。


メッセージのないものは、映画に限らず、見ていてつらいね。







護衛二人を引きつれ、シネマスクエアとうきゅうへREC2を見に行ってきた。

やばいよ。
RECもやばかったけど、REC2も相当じゃねえか・・・!
おかげで後遺症に悩まされてる。
暗いところに一人でいられない。
夜はお外に出られない!
当然ながら夜中トイレに行けないので、戦略的におもらしをしている。嘘だが。

とにかく怖いよ。
描写が怖いとか、グロいとかじゃない。
もちろんそれも含まれてるけど、それだけじゃない。
端的に言って、イヤな感じがする。
全編にわたってイヤな感じなのだ。

例えば危険なところから安全なところへ移ったのに、また危険なところへ戻る。
それだけじゃ済まさずに、今度は別の登場人物の視点から惨劇の始まりを見返す。
これはイヤだ・・・。
お化け屋敷に入って、出口から出ようとしたら閉まってるため、
入り口にまた戻るなんてことに匹敵するぐらいイヤだ。

今回も主観映像(クローバーフィールド?POV?とにかくそんなの)で、
誰かのビデオカメラ越しに見るという寸法で映画は撮影されている。
だから臨場感については言うことなし。
臨場感満載でイヤな感じをお送りしている。
ある仲間が大ピンチで死にそうになり、
その仲間の主観映像にカメラが切り替えられた時とかもうね・・・。

とにかく前回以上のパニックになってる。
前回はわけもわからず逃げ惑うストーリーだったけど、
今回はある程度わかりつつも、逃げられずにほぼ打つ手なしのストーリーだ。
要するに余計にたちが悪い。おかげで寝覚めも悪い。
なんだか体の具合も悪くなってきた。

敵が強すぎて絶望的というのはないけれど、得体の知れない怖さが溢れている。
溢れているものがなんか画面から滲み出して、途中退席者も続出していた。


最近は「おひとりさま女子」とかそういう一人でぶらつく女性が増えてるらしいけど、
そういうやつは一人でREC2を見に行けばいいと思うよ。
仲間のすばらしさを実感するから。

一人じゃないって、素敵なことだなあ。



追記:
メデイロスとアンヘラ(メデイロス役の個人ブログから)
http://javierbotet.blogspot.com/2008/02/rec-gana-2-premios-goya-de-3.html

バケモンかと思ったらイケメンじゃねーか!










今話題のある映画を見たんだ。
一人のカリスマとその他大勢の物語。

その他大勢の人々も自分の人生を持っている。
自分の人生が他の誰かと取り替え可能な現実は耐え難い。

だからカリスマに寄り添って自分に付加価値をつけようとする。
自分自身に添え木をしてこの人生に立とうとするのである。

しかしそれは自分の足で立っているとは到底言えない。
むしろ自分自身に由って立つことが出来ていないことをより鮮明にしてしまっている。
これでは駄目だ。

カリスマを称えることは構わないが、
それはあくまでも乗り越える対象として捉えなければなるまい。
そうでなければカリスマに限界付けられ、そこまでの人間になってしまう。


実際、映画で称えられていたカリスマは既に死んだ。
彼と仕事をすることが夢だったとか、
彼以上の存在はいないと称えた人々はどこへ向かえばいいのか。
また別のカリスマに寄り添って自分の人生を飾るのだろうか。

自分自身が自分自身の主にならねばならない。
他ならぬ自分自身の人生なのだから。

マイケルジャクソンフォロワーズ。
彼らの課題は彼ら自身が少なくとも次のマイケルになることを目指すことだろう。
少なくとも。