美容院は戦いの場だ
美容院では美容師が会話の主導権を握っている。
美容師が会話をふると、客はそれに答えなければならないプレッシャーがかかり、
途切れないようにしなければならないという追加のプレッシャーまでかかるらしい。
「らしい」というのは、私の場合、美容院では一切の会話を拒否するからである。
全くの没交渉だ。一例を挙げると、
「普段はめがねとかかけられるんですか〜?」と美容師が陽気に話しかけようが、
「なんですか。なぜそういう質問をするんですか。」と話の腰を折り、
「・・・スミマセン。」と美容師が謝ってそれで会話が終わった。
その後は延々と沈黙が続いたが、なんとも思わない。
平気で同じ美容院に通い続けている。
こういった具合に私は会話を100%跳ね除ける。
だが辺りに耳をすませると、
周りではどうやら美容師に気を使って会話をする傾向があるようなのだ。
美容師と会話すること自体はどうでもいい。したければすればいい。
問題なく会話が進めばそれでいいのだ。
しかし、美容師と客では共通の話題もないため、
次第に勢いはなくなり会話が途切れてしまう場合もある。
すると大抵、客が安易な自己卑下をはじめるのだ。
髪がくせっけだとか天パだとか、
挙げ句は自分の失敗エピソードを持ち出してまで会話を続けようとする。
美容師は合いの手を入れるだけ。媚びた笑いを見せながら、話を続ける客。
間を持たせるように。気を使わせないように。
そりゃあ増長する美容師も出てくるわけだよ。
安易な自己卑下には逃げないようにしよう。
沈黙が怖いかもしれないが、そう易々と自分から折れてこうべを垂れるな。
美容院へは髪を切りに行くのだから、沈黙の中、美容師に髪を切らせればいい。
それが本来の形だ。堂々としていていいのだ。
美容院とはただ髪を切る場なのだが、なぜか客の精神を試される場になっている。
それが今の美容院である。
由々しき事態ではあるが、我々が叫んだところで趨勢は変わらない。
ここは事実を事実として捉え、美容院を成長の場として認識し、利用しよう。
美容院で美容師のプレッシャーに勝つことができれば、
あらゆる交渉場面で一歩有利に立てるだろう。
周りの空気に安易に呑まれず、自己をしっかり持つべし。
美容院なんて、なんならパジャマで行っても構わない場所なのだ。
鉢巻にふんどし一丁で行っても許される。通報される筋合いは無い。
もし店員が警察に電話しようとしたなら、
仁王立ちのまま腕組みして「押忍!!」とでも言ってやれ。
とにかく、オシャレな店員や空間にだまされないようにしよう。
美容院のオシャレ空間ごときにだまされる人間は、宗教やマルチにも騙される。
どんなときでも強くありたいものだね。

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美容師が会話をふると、客はそれに答えなければならないプレッシャーがかかり、
途切れないようにしなければならないという追加のプレッシャーまでかかるらしい。
「らしい」というのは、私の場合、美容院では一切の会話を拒否するからである。
全くの没交渉だ。一例を挙げると、
「普段はめがねとかかけられるんですか〜?」と美容師が陽気に話しかけようが、
「なんですか。なぜそういう質問をするんですか。」と話の腰を折り、
「・・・スミマセン。」と美容師が謝ってそれで会話が終わった。
その後は延々と沈黙が続いたが、なんとも思わない。
平気で同じ美容院に通い続けている。
こういった具合に私は会話を100%跳ね除ける。
だが辺りに耳をすませると、
周りではどうやら美容師に気を使って会話をする傾向があるようなのだ。
美容師と会話すること自体はどうでもいい。したければすればいい。
問題なく会話が進めばそれでいいのだ。
しかし、美容師と客では共通の話題もないため、
次第に勢いはなくなり会話が途切れてしまう場合もある。
すると大抵、客が安易な自己卑下をはじめるのだ。
髪がくせっけだとか天パだとか、
挙げ句は自分の失敗エピソードを持ち出してまで会話を続けようとする。
美容師は合いの手を入れるだけ。媚びた笑いを見せながら、話を続ける客。
間を持たせるように。気を使わせないように。
そりゃあ増長する美容師も出てくるわけだよ。
安易な自己卑下には逃げないようにしよう。
沈黙が怖いかもしれないが、そう易々と自分から折れてこうべを垂れるな。
美容院へは髪を切りに行くのだから、沈黙の中、美容師に髪を切らせればいい。
それが本来の形だ。堂々としていていいのだ。
美容院とはただ髪を切る場なのだが、なぜか客の精神を試される場になっている。
それが今の美容院である。
由々しき事態ではあるが、我々が叫んだところで趨勢は変わらない。
ここは事実を事実として捉え、美容院を成長の場として認識し、利用しよう。
美容院で美容師のプレッシャーに勝つことができれば、
あらゆる交渉場面で一歩有利に立てるだろう。
周りの空気に安易に呑まれず、自己をしっかり持つべし。
美容院なんて、なんならパジャマで行っても構わない場所なのだ。
鉢巻にふんどし一丁で行っても許される。通報される筋合いは無い。
もし店員が警察に電話しようとしたなら、
仁王立ちのまま腕組みして「押忍!!」とでも言ってやれ。
とにかく、オシャレな店員や空間にだまされないようにしよう。
美容院のオシャレ空間ごときにだまされる人間は、宗教やマルチにも騙される。
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飲み会チェック人の早急な配置を望む
目的なく集団の中にいるのが耐えられない。
間が持たなくて死にたくなる。
大人数の飲み会なんて最たるもんだよ。
自由に歓談させるな。会話が途切れたらどうするんだよ。
そもそも会話が始まらなかったらどうするんだ。
無言の時間が一秒でもあったら帰りたい。
自民党が憲法を改正しようとしているようだが、是非ともこの件を第一条に加えてくれ。
目的なく集まって飲食することを禁ずる、と。
友達同士の飲み会ならいいんだ。
2、3人なら好きで集まってその場にいるんだから問題ない。
問題は8人位からだよ。
それを超えた人数で飲み会をやれば不幸な事態を呼び起こすこと受けあい。
人数が多くなれば皆が皆、友達というわけでもなくなる。
自然と会話が有志のみになり、会話が弾まなくなり、
話題が途切れ、手持ち無沙汰になる。そんな被害者が出てくるのだ。
手持ち無沙汰も度が過ぎれば視線をどこに落とすかも定まらなくなる。
目は虚ろになり、唇は渇き、挙動不審になるのだ。
だから飲み会をするからには自由を与えないでもらいたい。
規則でがんじがらめにしてもらいたい。
帰れないのであれば、そこにいる意味を与えてもらいたい。
意味を与えるのが嫌なら、この際、死を与えてもらっても構わない!
しかしいきなり死ぬと後片付けとか色々面倒なので、
飲み会チェック人を雇うことを法律で義務化してはどうだろう。
飲み会チェック人のすることはただひとつ、
飲み会に同席して会話に参加できない人間をリアルタイムでチェックし、
強制的に離脱させることだ。
これがあれば、知り合いが全然いない会合にも
とりあえず参加してみようという気になれるだろう。
飲み会チェック人がいなければ地獄だ。
まあ今の世の中がその地獄なのだが、飲み会に参加したが最後、
どんなに居場所がなくてもとりあえずいなければならない。
例えば5人が並んで座ってるとしてさ、
端の2名同士が話して盛り上がってたら真ん中の人は何もやることなくて、
しかも帰れないわけだよ。前にテーブルがあった場合にはね。
ほんと恐ろしい。鳥肌が立つ。
早く飲み会チェック人の義務化を法律に明記してもらいたい。
この間にも被害者は生まれ続けている。
マジで何とかして。

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大人数の飲み会なんて最たるもんだよ。
自由に歓談させるな。会話が途切れたらどうするんだよ。
そもそも会話が始まらなかったらどうするんだ。
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自民党が憲法を改正しようとしているようだが、是非ともこの件を第一条に加えてくれ。
目的なく集まって飲食することを禁ずる、と。
友達同士の飲み会ならいいんだ。
2、3人なら好きで集まってその場にいるんだから問題ない。
問題は8人位からだよ。
それを超えた人数で飲み会をやれば不幸な事態を呼び起こすこと受けあい。
人数が多くなれば皆が皆、友達というわけでもなくなる。
自然と会話が有志のみになり、会話が弾まなくなり、
話題が途切れ、手持ち無沙汰になる。そんな被害者が出てくるのだ。
手持ち無沙汰も度が過ぎれば視線をどこに落とすかも定まらなくなる。
目は虚ろになり、唇は渇き、挙動不審になるのだ。
だから飲み会をするからには自由を与えないでもらいたい。
規則でがんじがらめにしてもらいたい。
帰れないのであれば、そこにいる意味を与えてもらいたい。
意味を与えるのが嫌なら、この際、死を与えてもらっても構わない!
しかしいきなり死ぬと後片付けとか色々面倒なので、
飲み会チェック人を雇うことを法律で義務化してはどうだろう。
飲み会チェック人のすることはただひとつ、
飲み会に同席して会話に参加できない人間をリアルタイムでチェックし、
強制的に離脱させることだ。
これがあれば、知り合いが全然いない会合にも
とりあえず参加してみようという気になれるだろう。
飲み会チェック人がいなければ地獄だ。
まあ今の世の中がその地獄なのだが、飲み会に参加したが最後、
どんなに居場所がなくてもとりあえずいなければならない。
例えば5人が並んで座ってるとしてさ、
端の2名同士が話して盛り上がってたら真ん中の人は何もやることなくて、
しかも帰れないわけだよ。前にテーブルがあった場合にはね。
ほんと恐ろしい。鳥肌が立つ。
早く飲み会チェック人の義務化を法律に明記してもらいたい。
この間にも被害者は生まれ続けている。
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渋谷や新宿の恐ろしさ
都会の雑踏に揉まれつつ、疑問を抱くことなく日々を生きることは難しい。
特に渋谷や新宿。
あのあたりの駅を毎日利用している人間は気が変にならないのだろうか。
とにかく人が多すぎて、
自分が取り替え可能な社会の歯車のネジのさらに一部分であると思い知らされる。
私は渋谷や新宿はたまにしか行かないが、それでも気分が悪くなる。
満員電車に揺られてホームにつき、駅の構内も満員で、駅から出ても人混みで溢れている。
どこまで行っても多量の人間に直面し、逃げ場が無い。
満員の観客を前にした舞台の上みたいなもんで、
それでいて舞台袖に下がれないようなものだ。ストレスも半端ないだろう。
人間がたくさん歩いていると、私が歩く意味がわからなくなる。
こんなに人間が居るんだから、
私以外の人間も私と同じ用事をこなすだろうし、
なんだったら私と同じ社会的役割もこなすだろうと思う。
もう私はここで死ぬから、あと全部やっといてという考えも生まれるってもんだ。
私は伝説にしか聞いたことが無いが、
田園都市線という渋谷と接続している路線は混雑度が苛烈らしい。
恐ろしい話だ。
東京以外の地域の人間が恐ろしく思う東京のイメージは、新宿・渋谷で間違いない。
私の住んでるところは23区だけど、地上駅だし、のんきなもんだよ。
駅前にねこが寝てるくらいだから。そのくらいがちょうどいい。
毎日毎日、人間に押しつぶされ、
人間の間を潜り抜け、同じものを食べ、同じことをする。
これでまともな神経を保ってるほうが狂ってるわ。
若いうちはいいかも知れないけど、ずっと繰り返し続けることはできないだろうね。
この冗長な退屈を繰り返し続ける都会の人々は普通じゃない。
狂った世界に合わせて、自らも狂ってしまった人々なんだろう。

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特に渋谷や新宿。
あのあたりの駅を毎日利用している人間は気が変にならないのだろうか。
とにかく人が多すぎて、
自分が取り替え可能な社会の歯車のネジのさらに一部分であると思い知らされる。
私は渋谷や新宿はたまにしか行かないが、それでも気分が悪くなる。
満員電車に揺られてホームにつき、駅の構内も満員で、駅から出ても人混みで溢れている。
どこまで行っても多量の人間に直面し、逃げ場が無い。
満員の観客を前にした舞台の上みたいなもんで、
それでいて舞台袖に下がれないようなものだ。ストレスも半端ないだろう。
人間がたくさん歩いていると、私が歩く意味がわからなくなる。
こんなに人間が居るんだから、
私以外の人間も私と同じ用事をこなすだろうし、
なんだったら私と同じ社会的役割もこなすだろうと思う。
もう私はここで死ぬから、あと全部やっといてという考えも生まれるってもんだ。
私は伝説にしか聞いたことが無いが、
田園都市線という渋谷と接続している路線は混雑度が苛烈らしい。
恐ろしい話だ。
東京以外の地域の人間が恐ろしく思う東京のイメージは、新宿・渋谷で間違いない。
私の住んでるところは23区だけど、地上駅だし、のんきなもんだよ。
駅前にねこが寝てるくらいだから。そのくらいがちょうどいい。
毎日毎日、人間に押しつぶされ、
人間の間を潜り抜け、同じものを食べ、同じことをする。
これでまともな神経を保ってるほうが狂ってるわ。
若いうちはいいかも知れないけど、ずっと繰り返し続けることはできないだろうね。
この冗長な退屈を繰り返し続ける都会の人々は普通じゃない。
狂った世界に合わせて、自らも狂ってしまった人々なんだろう。
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今、生きる目的が問われている
今日ほど生きる目的を考えねばならない時代はないだろう。
何のために生きるのかという問いは私たちにとって益々重要になっている。
何をして生きるのか。どこで生きるのか。いつまで生きるのか。
選べる時代だからこそ、選択を委ねられた個人に葛藤が生まれている。
戦時中のような一種類の価値観に席巻されていた時代なら、
そもそも考える必要がなかった。
また、貧しい時代なら目の前の生活に手一杯で、生きる目的を考える必要もなかった。
あれ、戦時中は貧しいから、なんか同じこと言ってるな。まあいい。
今やアンチエイジング全盛の時代だ。
将来的にIPS細胞が実用化されたり臓器移植がもっと身近なものになれば、
半永久的に生きることもできるだろう。
また何にプライオリティを置いて生きるかという問題もある。
例えば最近話題の「食欲と寿命にトレードオフの関係がある」という主張だが、
もしそれが事実なら毎日腹いっぱい食べることと
食を犠牲にして長生きすることのどっちをとるかという話になるだろう。
だが、このような状況があるにも関わらず、
未だ私たちの間には生きることはどういうことかを考える機会が不足している。
メディアで議論されているものといえば、政治や経済や社会福祉の話題ばかりだ。
上記の問題は皆の問題だから、多数に向けたメディアで扱われているだけの話だ。
どのように生きるかということは究極的には個人的な問題である。
だからメディアで重く扱われない。
逆に言えば重く扱われない理由はそれだけだ。
生きるということが何であるのか、またどのように生きようとするのか。いかに死ぬのか。
改めて考えることが求められている。
メディアが注目しないからとか、皆が考えてないからとか、
生きる目的を考えずに惰性で暮らしていれば、やがて大きなしっぺ返しを喰らうだろう。
いや、しっぺ返しを喰らうから考えなきゃいけないとかそういうことでもなくて、
・・・・・・うーん、まあいいや。
それに人生をないがしろにして無目的に過ごしてもそれはそれで人生だ。
くだらない価値観にとらわれて人生を無駄にしていたのは私のほうだったのかもね。

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何のために生きるのかという問いは私たちにとって益々重要になっている。
何をして生きるのか。どこで生きるのか。いつまで生きるのか。
選べる時代だからこそ、選択を委ねられた個人に葛藤が生まれている。
戦時中のような一種類の価値観に席巻されていた時代なら、
そもそも考える必要がなかった。
また、貧しい時代なら目の前の生活に手一杯で、生きる目的を考える必要もなかった。
あれ、戦時中は貧しいから、なんか同じこと言ってるな。まあいい。
今やアンチエイジング全盛の時代だ。
将来的にIPS細胞が実用化されたり臓器移植がもっと身近なものになれば、
半永久的に生きることもできるだろう。
また何にプライオリティを置いて生きるかという問題もある。
例えば最近話題の「食欲と寿命にトレードオフの関係がある」という主張だが、
もしそれが事実なら毎日腹いっぱい食べることと
食を犠牲にして長生きすることのどっちをとるかという話になるだろう。
だが、このような状況があるにも関わらず、
未だ私たちの間には生きることはどういうことかを考える機会が不足している。
メディアで議論されているものといえば、政治や経済や社会福祉の話題ばかりだ。
上記の問題は皆の問題だから、多数に向けたメディアで扱われているだけの話だ。
どのように生きるかということは究極的には個人的な問題である。
だからメディアで重く扱われない。
逆に言えば重く扱われない理由はそれだけだ。
生きるということが何であるのか、またどのように生きようとするのか。いかに死ぬのか。
改めて考えることが求められている。
メディアが注目しないからとか、皆が考えてないからとか、
生きる目的を考えずに惰性で暮らしていれば、やがて大きなしっぺ返しを喰らうだろう。
いや、しっぺ返しを喰らうから考えなきゃいけないとかそういうことでもなくて、
・・・・・・うーん、まあいいや。
それに人生をないがしろにして無目的に過ごしてもそれはそれで人生だ。
くだらない価値観にとらわれて人生を無駄にしていたのは私のほうだったのかもね。
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形式への墜落
私事ではありますが、現在、絵画コンクールの締め切りが間近に迫っていて、
身の振り方を考えている最中です。
身の振り方というのはつまり、絵画コンクールに通る絵を描くかどうかということ。
この話の前提として、絵画コンクールはコンクールごとに特色があって、
入選したかったらその特色に沿った絵を描かなきゃいけないのよ。
極端な話、髭の濃いオカマ同士がじゃれあってる絵を描いたら、
どんなにその絵がリアルでも100%門前払いだ。
そこで私が普段描いてる絵であるが、
キャンバスにねこのかわいさを全面に叩きつけた内容になっている。
他の人間がどのような事情で絵を描いてるか知らんが、
私は「私というフィルター」を通してねこのかわいさを知らしめるために絵を描いてる。
だからねこをかわいく描くことが至上課題だ。
デフォルメしたっていい。リアルに描けてもかわいくなければ失敗だ。
しかしながら、今回のコンクールはそのような絵を求めていないようである。
ちなみに去年の受賞作品一覧が下記のページにあったから見て欲しい。
http://www.ichimainoe.co.jp/topics/20110801.html
一見してお分かりだろう。
全部が全部、毒にも薬にもならない。
果物とか草花のアップを描いて、だから何なんだという代物ばかりである。
絵に何か物語が込められてると思いきや、タイトルは「花」とか「コスモス」とか。
そんなもんは見りゃわかるんだよ。
私が思うに、選考基準は「他人の家の玄関に飾ってあってもなんの印象も残さない絵」だ。
それか、「トイレに飾るカレンダーの題材になっても問題のない絵」である。
要するに絵そのものの印象が薄くなければならない。
絵がその空間の主役になってはいけないのである。
BGMのような絵画が求められているのだ。
あくまで主役は、例えば居住空間に飾られるなら居住空間である。
このコンクールに岡本太郎やピカソが応募しても落ちるだろう。
ましてやマグリットなんて絶対駄目だ。
何の野心もなく、
「ただそこにある題材をキャンバスに描きました〜」
という絵を描いた奴が受賞する。つまらない話である。
ただ、文句ばかりをいっても始まらないので、
私の絵をこのコンクールの形式に落とし込んだ形にして応募する予定だ。
肩書きを得ないと、伝わらないこともあるだろう。
また、自身の能力を要請された形式に落とし込む作業は、
ジャンルを問わずプロの仕事人なら誰でもやっている。
好きなことばかりはできない。
出された様式に従う。来た球を打つ。勝負するという点では同じことだな。
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身の振り方を考えている最中です。
身の振り方というのはつまり、絵画コンクールに通る絵を描くかどうかということ。
この話の前提として、絵画コンクールはコンクールごとに特色があって、
入選したかったらその特色に沿った絵を描かなきゃいけないのよ。
極端な話、髭の濃いオカマ同士がじゃれあってる絵を描いたら、
どんなにその絵がリアルでも100%門前払いだ。
そこで私が普段描いてる絵であるが、
キャンバスにねこのかわいさを全面に叩きつけた内容になっている。
他の人間がどのような事情で絵を描いてるか知らんが、
私は「私というフィルター」を通してねこのかわいさを知らしめるために絵を描いてる。
だからねこをかわいく描くことが至上課題だ。
デフォルメしたっていい。リアルに描けてもかわいくなければ失敗だ。
しかしながら、今回のコンクールはそのような絵を求めていないようである。
ちなみに去年の受賞作品一覧が下記のページにあったから見て欲しい。
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一見してお分かりだろう。
全部が全部、毒にも薬にもならない。
果物とか草花のアップを描いて、だから何なんだという代物ばかりである。
絵に何か物語が込められてると思いきや、タイトルは「花」とか「コスモス」とか。
そんなもんは見りゃわかるんだよ。
私が思うに、選考基準は「他人の家の玄関に飾ってあってもなんの印象も残さない絵」だ。
それか、「トイレに飾るカレンダーの題材になっても問題のない絵」である。
要するに絵そのものの印象が薄くなければならない。
絵がその空間の主役になってはいけないのである。
BGMのような絵画が求められているのだ。
あくまで主役は、例えば居住空間に飾られるなら居住空間である。
このコンクールに岡本太郎やピカソが応募しても落ちるだろう。
ましてやマグリットなんて絶対駄目だ。
何の野心もなく、
「ただそこにある題材をキャンバスに描きました〜」
という絵を描いた奴が受賞する。つまらない話である。
ただ、文句ばかりをいっても始まらないので、
私の絵をこのコンクールの形式に落とし込んだ形にして応募する予定だ。
肩書きを得ないと、伝わらないこともあるだろう。
また、自身の能力を要請された形式に落とし込む作業は、
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