ぷにっこ学術日誌+

ぷにっこな学術日誌です。

品川でおでんを食べながら旧交を温めたりしてた。まあ旧でもないか。
大学時代の交友関係のみで話をすると気分も大学時代に戻るね。

それで話してて気づいたんだけど、俺は大学時代と何も変わってない。
なんか偉そうだし議論も好きだし。必要以上に色々しゃべるし。
そして内容の大半でどこか常識をはみ出している。
端的に世間を舐めすぎなんだよ。まあ舐められる世間も世間だ。
痛み分けってところか。

まあ俺の話はいいんだよ。
20代も後半になると生き方の問題が顔を出してくるってことを話したいのだ。

誰しもが自らの好きなように生きたくて、もがいてるけど上手くはいかない。
他人と違えば敵も増える一方だ。
味方はどんどん少なくなるし、本当に今のやり方が正しいか疑問もわいてくる。
どれほど努力したって成功したってやっぱり新しい問題に直面するのだ。

そこで生き方は現状維持を貫くものと
目標達成の螺旋に挑むものの2パターンに分かれるのだけれど、
後者の生き方についての話を品川で少ししてきたわけである。
おでんを食べながらね。刺身も食べたけど。

まず向上心のあるものは向上したい、他人を薙ぎ倒したいと思うわけだけれど、
じゃあどのドメインで戦えばいいのか悩む。
若ければ若いほど選択肢が多くて、
どこに自分のリソースを投入すればいいのかわからない。
わかっちゃいるけど、隣の芝生が青いもんだから目移りする。
そこで私は考え付く限り全てのドメインで戦えと提案しよう。
むちゃくちゃでもいいんだよ。一見、全然勝負にならなそうでも良いんだ。

だって、これは学校のテストじゃないんだから、
カンニングしたって、先生とグルになったっていい。
今のは比喩だが、要するに人の力を借りていいのだ。
人脈を作るのもいいし、誰かに自分の仕事を丸投げしてもいい。
専門書を読むのだって、大人の大抵はやってないのだから、それをやるのもいいだろう。

ひとつのドメインでひとりで戦うほうがよほど簡単だ。
ほかの事を考えなくていいし、他人という変数を気にしないですむ。
コミュニケーション能力を高める努力もいらない。

でも20代後半になればもうマネジメントを意識しないと駄目だ。
そしてジェネラリストであらねばならない。上に立とうとするのなら。
政治経済はもちろん、思想文化という教養も身につける必要がある。
前者を知らないとビジネスの話ができないし、
後者を知らないと体系的な会話ができない。
そんで語学も金融もITもある程度知ってないと舐められる。

さて、じゃあやみくもに努力すればいいのかというとそんなことはない。
伝えたい人に伝える必要がある。
伝える内容は自分のスキルでもいいし窮状でもいい。
自分という商品を売り込むマーケティングだ。

例えば雑誌で仕事に関する連載をしたいと考えたときに、
編集者と知り合いになっておくことは正しい。
農家のおじさんと知り合いになるのは間違いだ。
伝えたいところに伝えるという努力が必要になる。
なんでもかんでも全力でホームランではなく、狙ったところに落とす。
ホームランより難しいかもしれない。

あとはどうでもいい人間の評価を気にしないこと。
そして自分の将来を決定する人間の評価は気にすることだ。
もし出世をしたいサラリーマンなら上司の評価を死ぬほど気にすべきだし、
それだったら近所の中学生に罵倒されても一切気にする必要はない。

まとめると、一人でなんでもやることは愚の骨頂で、
むしろ自分以外に出来ることはすべてやってもらうという発想が必要なのである。
もちろん最後の最後は自分でやるんだけれど、人を動かすことが肝なのだ。
より多く、より高くを目指せば自然とそうなる。
自己研鑽を怠ってはいけないが、万能になったからって何でも自分でやっては駄目だ。
むしろそこの我慢が最初は難しいかもしれない。
自分がやれば100なのに、他人にやらせると70しかできないことに煩悶するかもしれない。
しかしその間に自分がほかの事をやれれば170になる。
なんとも簡単な計算式だけど根元は間違っちゃいないだろう。


・・・と、まあそういうことをたまには話したりするのである。
上記のことを俺が行動するわけではない。行動するかもしれないけど。
参謀として話をするのが好きだということは言えそうだ。
参謀になるのが好きなのか参謀役が好きなのか・・・これもわからんな。
まあコンサルタント気質というものがあるなら、きっとそれなのだろう。
もうコンサルタントはやめたけど、今後も気質は変わらない。

まじめな話をすることもあれば、うんこの話をすることもある。
ふり幅大きく生きていこう。そっちの方が面白いから。


不幸な人間はこの世を呪うだろう。
ありのままのこの世を呪う。
ありのままのこの世をリセットするために、攻撃する。

幸せな人間はこの世に事情を差し挟まない。
ありのままを受け止めて、受け入れる。
ありのままが、このままに、続くように、守る。

さて、私は今、どちらかというと守る側に立っている。
あと数ステップすれば、つまり何回か勝てば、いわゆる勝ち組だとも思ってる。
(勝ち組負け組みはくだらない概念だが、わかりやすいので乗ってみた。)

守りながら毎日を続けることは難しい。
悪意を撒き散らして、無差別に攻撃するのは簡単だ。
今まで私はなんと易しい道を、あまりにも険しいものと誤解して歩んできたのか。

幸せな人間と不幸な人間の住む世界は、全くの別世界である。
私は私が住み始めた幸せな人間が住む世界のことをもっと知らねばならない。
まずはあるがままに、この世の中に溢れているものを受け止める支度をしよう。

自分で歪ませたものを時間をかけて戻すのだ。
今の私が適正だと思う形に。

以前の私も現在の私も正しいことには変わりない。
属する世界が変わればルールが変わる。
ルールが変われば正しさも変わるだろう。それだけの話である。
私の属する世界が変わったのだ。


相変わらず何言っているのか意味が不明な文章だな。
まあこれは変えなくていいと思ってるけど。


最近は不況不況と言われており、労働者を取り巻く雇用情勢は厳しい。
そんななか、私は500倍の倍率を勝ち抜いて・・・
要するに1名の枠を争う500人の中で1位になり、内定をもらって転職が決まった。

そう、1位である。
総合的に判断して、
その法人(転職先は株式会社ではない)応募者の中で1位だったのだ。

つまり、私が一番優れていた。
これは自慢ではなく事実である。
ここをぼやかすことは謙遜ではなく自己卑下だろう。
それははっきりさせておきたい。
勝負の勝ち負けを曖昧にすることは負けた者に対して失礼だ。

私がこのゲームに勝ち、他の者はすべて私に敗れた。
それが事実であり全てである。

今回、採用枠が1名であることは知っていた。
応募者の数については私が知る由もないが、
私が今現在在籍している会社は1名枠に100人以上の応募が来る。
今回応募した法人は待遇が割といいため、
少なくともその2倍はいくだろうと思っていた。
つまり、200倍だろうと。そう思っていた。
そこへ応募した私は、もちろん、当初から199人に勝つつもりでいたのだ。

宝くじならば勝敗に能力は関係ないだろう。
しかし採用選考は一番優秀な者が勝ち残る。

自分が他者よりも優れていると信じ、
優れていることを文章でも口頭でも系統立てて上手に伝達しなけれならない。
そしてそのことに絶対の自信がなければ駄目だ。

私は自分の能力とそれを伝える技術に絶対の自信があり、
全応募者を薙ぎ倒してナンバーワンの位置を獲得することに疑いを感じなかった。
自分を疑ったりしなかったのである。
そして最終的に思い通りの結果になった。

人生において常に1位になる必要はないと、私は思う。
しかし、どこかで1位にならねばならない場面がやってくることは確実である。
規模は人によってまちまちだろうが、そのときにごまかしては駄目だ。
負けてもどうでもいいと、逃げ道を用意しては駄目なのだ。
ここぞというところでは必ず勝つ。
どうでもいい場面ではいくら負けてもいいが、勝つべきところでは勝つ。

それを見極め、誰にも負けないぐらいに信じられるような自分を日頃から造ること。
誰にも負けないとは文字通り、他の全ての人間よりも優れるということである。
それが1位になるということだ。

平均よりも上ならいいとか、
上位の幾人かに選ばれればいいという考えは甘い。
どれだけ誤魔化しても、いつか1位にならねばならない日がくる。
君はそのときのために準備をしているだろうか。
周りの人間よりも優れる覚悟と自信はできているだろうか。

現実から逃れ続けることはできない。いつか勝負する時期がやってくる。
自分が1位になれることを信じられるかどうか。
一般的に言われる言説、「自分を信じる」とはまさしくこのことなのだ。

君も私も、誰でも1位になれる。
誰かが1位になるのだから。


そのための努力を惜しまず、
最後まで自分を信じられることができれば。
誰だって、君だって、1位になることができるのだ。








自分で自分の価値を決められない馬鹿が、
市場価値とやらを過剰に気にして右往左往する。

自分の判断が他人のそれより劣っていると吹聴してるようなものだ。

市場価値は一時的な他人の価値判断の集積に過ぎない。分析して利用せよ。

他人を蹴落とす際の基準に使うくらいでちょうどよし。

市場価値を盲信して市場価値で自分自身の価値を決めることは、
他人に無条件降伏することと同義だ。

志し高く、それでいて柔軟な思考を。
自分自身だけの目的に向けて。






我々のパーソナリティだとか生き方の幅だとか、
そういうものが社会的に既に規定されていると構造主義者は主張する。

しかしその主張がなんだろう。
世界に投げ捨てられた我々が不条理に日々直面することに変わりはない。

我々は日々の不条理に直面するごとに…
いや人生丸ごとの不条理に直面するごとに、
何かに還元されることなく我々の問題が我々自身だけの問題であることを知る。

社会ごとに質は違えど直面する実存的問題は操作不可能な不条理という点で変わらない。

問題に直面する主体の都度の決断は代替しようがない。
これもまた構造主義者はパターン化して把握可能だというのだろうか。

しかし、それでも、直面する当事者は我々だ。
決断や決断に付随する行為のオーナーは我々なのだ。

そこに構造主義に還元されえない実存主義の仕事が隠されている。
いや仕事というか我々の人生の課題か。

構造主義が「既に決まっている」と主張する。
だが我々には既に決まったものとの闘いが待っている。

実存の闘争は終わらない。
何と闘っているのかは分からなくても、
人々は紛れもなく自分自身として自分自身の問題と闘っているのだ。


何でこんな当たり前を言わなくちゃならない!