今日ちょっと用事があって6人くらいに電話したんだけど、
ひとりで考えたり調べたりしてるときよりも幅広い情報が集まったよ。
webで調べれば情報はいたるところに落ちてるけど、
そもそもそれを見つけるには意識下に情報を持ってこなければならない。
例えばねこの情報を調べようとしてたら樹液の凍結温度なんて出てこないだろう。
出てきても意識に上ってないから捉まえられない。
ところが人と話しているときならAの話題のついでにBもCも手に入る。
情報を幅広く得たい場合には人に聞く。
最終決断するために情報を深く狭く得たい場合は自分で調べる。
そういう振り分けが賢い選択なのだろう。
なんでも人に聞いていては考える習慣が身につかないし、
いつでも自分ひとりで考えていては独断のまどろみから脱出できない。
それはわかってる。わかってるけどやらないから今日は実践してみた。
自分ひとりで考えることはやりすぎるほどやっているし、手間ひまかからない。
でも俺の場合は常識がないから偏って考えてる。
偏った考えを前提において演繹的に考えてるから、
過程の正誤には気づけども、土台の正誤にはなかなか気づけないのだ。
迷いがないともいうが血迷ってるともいえる。
そういうときに自分と異なる土台を持った友人知人の演繹的に正しい考えを聞いて、
Aだったものが本当はBだったりCだったりするのだということに気づく。
違う話題の情報収集と、同じ話題の違う結論の情報収集。
それが同時にできてしまうのが人に聞くということ。
だから人に聞くというのは有効で依存性の高い行為だ。
・・・ということを、自分で考えている。
この考え自体も他者の意見にさらされる必要があるだろう。
間違った前提を論理的にすすめていって間違っている可能性があるから。
厳密に言えば間違っているということはないのだけど、
多数派にならない可能性があるというか・・・。
難しいね。日本語は難しく書こうと思えばいくらでも難しく書ける。
それを簡便に書くことは難しい。
とにかく言いたいことはひとつ。
人の話も聞いて、自分で考えることも放棄するなということ。
結論はいつも当たり前なんだけど、過程がいつもややこしくて困るね。
ひとりで考えたり調べたりしてるときよりも幅広い情報が集まったよ。
webで調べれば情報はいたるところに落ちてるけど、
そもそもそれを見つけるには意識下に情報を持ってこなければならない。
例えばねこの情報を調べようとしてたら樹液の凍結温度なんて出てこないだろう。
出てきても意識に上ってないから捉まえられない。
ところが人と話しているときならAの話題のついでにBもCも手に入る。
情報を幅広く得たい場合には人に聞く。
最終決断するために情報を深く狭く得たい場合は自分で調べる。
そういう振り分けが賢い選択なのだろう。
なんでも人に聞いていては考える習慣が身につかないし、
いつでも自分ひとりで考えていては独断のまどろみから脱出できない。
それはわかってる。わかってるけどやらないから今日は実践してみた。
自分ひとりで考えることはやりすぎるほどやっているし、手間ひまかからない。
でも俺の場合は常識がないから偏って考えてる。
偏った考えを前提において演繹的に考えてるから、
過程の正誤には気づけども、土台の正誤にはなかなか気づけないのだ。
迷いがないともいうが血迷ってるともいえる。
そういうときに自分と異なる土台を持った友人知人の演繹的に正しい考えを聞いて、
Aだったものが本当はBだったりCだったりするのだということに気づく。
違う話題の情報収集と、同じ話題の違う結論の情報収集。
それが同時にできてしまうのが人に聞くということ。
だから人に聞くというのは有効で依存性の高い行為だ。
・・・ということを、自分で考えている。
この考え自体も他者の意見にさらされる必要があるだろう。
間違った前提を論理的にすすめていって間違っている可能性があるから。
厳密に言えば間違っているということはないのだけど、
多数派にならない可能性があるというか・・・。
難しいね。日本語は難しく書こうと思えばいくらでも難しく書ける。
それを簡便に書くことは難しい。
とにかく言いたいことはひとつ。
人の話も聞いて、自分で考えることも放棄するなということ。
結論はいつも当たり前なんだけど、過程がいつもややこしくて困るね。
人生の谷底で絶望を味わい、それで自分自身を「深い」と思っている人間がいる。
自分が他の人間よりも地獄を味わっているから、落差の分だけ深いのだと。
しかし、そんなことは大抵の場合間違いであって、
もともと彼らは谷底の住人なのである。
だから深みに落ち込んだように見えるが、実際は彼らにとって平地でしかないのだ。
平地を歩いて、高みにいる人間を見上げ、
「人生の底を知らない浅はかなやつら」と馬鹿にしていることが往々にしてある。
自身の状況に耐えられないため、周辺を悪にして現在をやり過ごす。
苦痛が常態であるため、苦痛ではない状況を悪とみなして近寄らない。
官僚は楽な仕事で馬鹿ばかりと罵る輩は官僚の何を知っているのか。
ギャルは浅はかで能無しだと見下す輩はギャルの何を知っているのか。
チャラ男は・・・まあチャラ男はチャラいバカ野郎で合ってる。それはOK。
話がずれたな。元に戻そう。
現在の状況に耐えられない人間は、
自分の状況を耐えうるものにするためどこかに「悪」を作り上げる。
今の自己を肯定するために、周囲や他者を否定する。
自己を肯定すること自体は悪くない。
どこかに不要な悪を作り上げ、
それが文化として作り上げられて維持されることが悪なのだ。
つまり今の社会の善悪も誰かの自己肯定の延長に過ぎない。
貞操、節制、謙譲、敬虔、長寿。
すべて誰かの状況でしかなく、それをよしとする客観的な理由などどこにもない。
ただそんな状況に置かれていた人間が多数派だったというだけだ。
誰かがその状況に置かれていた自分を肯定しようとし、
対立概念を悪と看做しただけなのである。ここ重要。テストに出るよ。
善悪は個々人の主観でしかない。
社会制度に祭り上げられた後も同様なのである。
もし今の社会制度が、冒頭のように
「谷底で暮らす人間が上層の人間を憎んで生まれたもの」
だとしたらどうする?
自分自身を「深い」と思っている浅い人間たちの価値観だとしたら?
与えられたもので充足せず、必要なものは奪い取ることだ。
それは価値観にも言える事である。
価値観とは言わば人生観なのだから。
そして人生とは、やはりどこまでいっても自分の人生なのだから。
それ以外ではないのだから。
自分が他の人間よりも地獄を味わっているから、落差の分だけ深いのだと。
しかし、そんなことは大抵の場合間違いであって、
もともと彼らは谷底の住人なのである。
だから深みに落ち込んだように見えるが、実際は彼らにとって平地でしかないのだ。
平地を歩いて、高みにいる人間を見上げ、
「人生の底を知らない浅はかなやつら」と馬鹿にしていることが往々にしてある。
自身の状況に耐えられないため、周辺を悪にして現在をやり過ごす。
苦痛が常態であるため、苦痛ではない状況を悪とみなして近寄らない。
官僚は楽な仕事で馬鹿ばかりと罵る輩は官僚の何を知っているのか。
ギャルは浅はかで能無しだと見下す輩はギャルの何を知っているのか。
チャラ男は・・・まあチャラ男はチャラいバカ野郎で合ってる。それはOK。
話がずれたな。元に戻そう。
現在の状況に耐えられない人間は、
自分の状況を耐えうるものにするためどこかに「悪」を作り上げる。
今の自己を肯定するために、周囲や他者を否定する。
自己を肯定すること自体は悪くない。
どこかに不要な悪を作り上げ、
それが文化として作り上げられて維持されることが悪なのだ。
つまり今の社会の善悪も誰かの自己肯定の延長に過ぎない。
貞操、節制、謙譲、敬虔、長寿。
すべて誰かの状況でしかなく、それをよしとする客観的な理由などどこにもない。
ただそんな状況に置かれていた人間が多数派だったというだけだ。
誰かがその状況に置かれていた自分を肯定しようとし、
対立概念を悪と看做しただけなのである。ここ重要。テストに出るよ。
善悪は個々人の主観でしかない。
社会制度に祭り上げられた後も同様なのである。
もし今の社会制度が、冒頭のように
「谷底で暮らす人間が上層の人間を憎んで生まれたもの」
だとしたらどうする?
自分自身を「深い」と思っている浅い人間たちの価値観だとしたら?
与えられたもので充足せず、必要なものは奪い取ることだ。
それは価値観にも言える事である。
価値観とは言わば人生観なのだから。
そして人生とは、やはりどこまでいっても自分の人生なのだから。
それ以外ではないのだから。
ルーティンワークに対し、ありもしない可能性に身を投じることは間違いだ。
日常の雑事が魔法のように消し飛ぶことはこの先もない。
だが!いや、だからこそ、今のここで本気を出すのである。
無限回繰り返される些事に、さながらシーシュポスの如く立ち向かうのだ。
今いるところで、自分にやれることを、ひたすらにやるのである。
無意味に意味を見出すのではない。無意味から意味を引き出すのだ。
全くの無意味に対して無抵抗であれば、意味が引き出されることはない。
だいたい人生が無意味なのだから、
無意味に直面してあがかないのでは日々の態度と一貫性がないだろう。
恐ろしく容積が少なく、簡単に取り扱われる物事に世界一詳しくなれるか?
そんな意志の有無がいつだって試されている。
確かに世の中は下らないことで満ち溢れている。
しかしそれが前提なのだ。誰も彼もそんなことは知っている。
要はそこから、その無意味へ意味を足していけるかだ。
スタートは誰でも無意味なのである。
偏屈でも異端でも、もちろん王道でもいい。
どんな道を選ぼうと自由だ。
ただ、無意味と向き合って掘り返していかない限り意味は現れないだろう。
現れた意味にも気付かないだろう。
これだけはおそらく確かなことだ。
確かに意味あることなどつまるところはこのぐらいか。
まあ、今日のところはそれでよしとしよう!
日常の雑事が魔法のように消し飛ぶことはこの先もない。
だが!いや、だからこそ、今のここで本気を出すのである。
無限回繰り返される些事に、さながらシーシュポスの如く立ち向かうのだ。
今いるところで、自分にやれることを、ひたすらにやるのである。
無意味に意味を見出すのではない。無意味から意味を引き出すのだ。
全くの無意味に対して無抵抗であれば、意味が引き出されることはない。
だいたい人生が無意味なのだから、
無意味に直面してあがかないのでは日々の態度と一貫性がないだろう。
恐ろしく容積が少なく、簡単に取り扱われる物事に世界一詳しくなれるか?
そんな意志の有無がいつだって試されている。
確かに世の中は下らないことで満ち溢れている。
しかしそれが前提なのだ。誰も彼もそんなことは知っている。
要はそこから、その無意味へ意味を足していけるかだ。
スタートは誰でも無意味なのである。
偏屈でも異端でも、もちろん王道でもいい。
どんな道を選ぼうと自由だ。
ただ、無意味と向き合って掘り返していかない限り意味は現れないだろう。
現れた意味にも気付かないだろう。
これだけはおそらく確かなことだ。
確かに意味あることなどつまるところはこのぐらいか。
まあ、今日のところはそれでよしとしよう!
数字を用いることは、厳密に考える上で外すことができない。
どんな夢や希望も、実現のためには日常の些事に落とし込まねばならないだろう。
その際に数字を用いて考えるのと考えないのとではリアルさが違う。段違いだ。
まず代表的な数字はお金だ。収入と支出。
月の収支や年の収支を把握することは大事だ。
次に代表的な数字は確率だ。事象の発生確率は何%なのか。
宝くじを当てることを計画に入れてしまったらそりゃあ無茶な計画になる。
確定的でない事柄を当てにしてるなら代替手段を考えることが必要になるだろう。
それ以外にも、時間や距離など我々は数字に取り囲まれて生きている。
それを直視するなら数字を用いて考える必要は大ありだ。
税金に毎年いくら取られているか。
毎日どのくらい2chで時間を浪費してるか。
ちゃんと数字で捉えないといけない事柄はきりがない。
例えば札幌に永住を試みるとして、
「頑張る」だけでいけるかというと、たぶんいけない。
綿密な計画と正確な遂行が要求される。
効率の外にある芸術関係でも事情は同じじゃないかな。
俺は絵を描いてるけど特に定まった目的はないから、
黙々と絵画教室で絵を描いてるけどさ。
これが日展や二科展目指してますってんなら取り組み方違うだろ。
一日に何時間割くとか時間配分を数字で計算しておく以外に、
描き方についてもミリ単位で計測しないと駄目だと思う。
なんだかんだで数字なのだよ。
ロマンもへったくれもないけどさ。
これまで俺は少しロマンチスト過ぎた感があるかもしれない。
今後は理屈と数字の面も強化していかねばならないだろう。
どんな夢や希望も、実現のためには日常の些事に落とし込まねばならないだろう。
その際に数字を用いて考えるのと考えないのとではリアルさが違う。段違いだ。
まず代表的な数字はお金だ。収入と支出。
月の収支や年の収支を把握することは大事だ。
次に代表的な数字は確率だ。事象の発生確率は何%なのか。
宝くじを当てることを計画に入れてしまったらそりゃあ無茶な計画になる。
確定的でない事柄を当てにしてるなら代替手段を考えることが必要になるだろう。
それ以外にも、時間や距離など我々は数字に取り囲まれて生きている。
それを直視するなら数字を用いて考える必要は大ありだ。
税金に毎年いくら取られているか。
毎日どのくらい2chで時間を浪費してるか。
ちゃんと数字で捉えないといけない事柄はきりがない。
例えば札幌に永住を試みるとして、
「頑張る」だけでいけるかというと、たぶんいけない。
綿密な計画と正確な遂行が要求される。
効率の外にある芸術関係でも事情は同じじゃないかな。
俺は絵を描いてるけど特に定まった目的はないから、
黙々と絵画教室で絵を描いてるけどさ。
これが日展や二科展目指してますってんなら取り組み方違うだろ。
一日に何時間割くとか時間配分を数字で計算しておく以外に、
描き方についてもミリ単位で計測しないと駄目だと思う。
なんだかんだで数字なのだよ。
ロマンもへったくれもないけどさ。
これまで俺は少しロマンチスト過ぎた感があるかもしれない。
今後は理屈と数字の面も強化していかねばならないだろう。
善悪のメーターを振り切れば金なんていくらでもつくれる。
要は善のまま、ノーリスクのままにお金を生み出すのが難しいのだ。
だからサラリーマンはお金がない。ノーリスクだから。
しかしそのノーリスク生活こそ多大なるリスクを抱えているのだが、
そんなことは多くの人間にとってどうでもいいことだ。
命を薄めて金に変えているという事実は誰にとってもどうでもいいことかもしれない。
そこにこだわって煩悶とした日々を過ごしている俺のほうがどうかしている。
当たり前を当たり前として、不条理を所与のものとして、受け入れる。
それが社会を生きるうえでの適性というものだ。
まったく馬鹿馬鹿しいが事実だからどうしようもない。
悪魔に魂を売れば引き換えに金は手に入る。
でもそれをしないで、「お金ないね」なんていいながら慎ましく暮らしていく。
どっちでもどうでもいい気がするけど、多くの人間は後者なのだ。
そしてそのおかげで社会が成り立っている。
成り立っている社会がいいか悪いかは別問題だけど。
結局はなんだかずるをしない人間が大多数を占めている。
そこに錬金術師は不要だ。居場所がない。
居場所がなくても、なお、錬金をするのか、否か。
選択を求められている。
進んだ先はいずれも袋小路だろう。
終わりにふさわしい場面もなく、終わりは静かに終わる。
金を持って終わるか、金を持たずに終わるか。
あまり違いはないのだろうか。やはり違いはあるのだろうか。
錬金術師に迷いはなかったのだろうか。
要は善のまま、ノーリスクのままにお金を生み出すのが難しいのだ。
だからサラリーマンはお金がない。ノーリスクだから。
しかしそのノーリスク生活こそ多大なるリスクを抱えているのだが、
そんなことは多くの人間にとってどうでもいいことだ。
命を薄めて金に変えているという事実は誰にとってもどうでもいいことかもしれない。
そこにこだわって煩悶とした日々を過ごしている俺のほうがどうかしている。
当たり前を当たり前として、不条理を所与のものとして、受け入れる。
それが社会を生きるうえでの適性というものだ。
まったく馬鹿馬鹿しいが事実だからどうしようもない。
悪魔に魂を売れば引き換えに金は手に入る。
でもそれをしないで、「お金ないね」なんていいながら慎ましく暮らしていく。
どっちでもどうでもいい気がするけど、多くの人間は後者なのだ。
そしてそのおかげで社会が成り立っている。
成り立っている社会がいいか悪いかは別問題だけど。
結局はなんだかずるをしない人間が大多数を占めている。
そこに錬金術師は不要だ。居場所がない。
居場所がなくても、なお、錬金をするのか、否か。
選択を求められている。
進んだ先はいずれも袋小路だろう。
終わりにふさわしい場面もなく、終わりは静かに終わる。
金を持って終わるか、金を持たずに終わるか。
あまり違いはないのだろうか。やはり違いはあるのだろうか。
錬金術師に迷いはなかったのだろうか。


