世田谷の車窓から
- 2010/07/25
- 01:59
金曜は世田谷区のとある郵便局に用事があったので、
朝もはよから都営線&メトロに乗り込んだ。
私の通勤経路は23区内でありながら座席が空きまくっているので確実に電車に座れる。
しかし今回はルートが違うため、都営線やメトロを利用した。
彼らは甘くなかった。
ぎゅうぎゅう詰めである。肉と肉のぶつかり合い。ピーマンの肉詰めと同レベル。
朝日が差し込むちょっと温い鉄の箱の中では、
押し込まれた働き蟻達がそれぞれの視線をあらぬ方向へ向けている。
時間が経てども車内は快適になることなどなく、
停車するたびに個人のスペースは狭くなるばかり。
都会の片隅で毎日起きている、こんな何気ない出来事。
でもこの出来事だけで「人生は素晴らしい」と吹聴してまわる馬鹿への反証には十分だ。
こんな毎日ではそもそもを疑ってしまう。
そもそも毎日の仕事という苦行を耐えることもそうだし、
それへ向かう手段にも耐えなければならない理由というのは何なんだ?
耐え続けて得られるものは寸志のみ。失うものは計り知れない。
この事実によって大勢の人間が今すぐ死ぬとは思えないけど、
こんな日常を繰り返したいと思っている人間など数%もいないことは明白だ。
少子化の前に殺人件数や自殺者数が、
この程度で済んでいる不思議さに注目すべきではないか。
電車は目的地について人々を吐き出す。
吐き出された人々は疲れた顔で、もっと疲れる仕事場へと出かける。
何かが間違っている。あるいは一切が間違っている。
私はそんなことを考えながら用賀駅へ降り、郵便局へと向かった。
向かう途中、パチンコ屋の前で並んでいる若者たちがいた。
時刻はAM9:45。おそらくパチンコ屋の開店を待っているのだろう。
堕落者か落伍者か。しかし彼らの方が明らかに自由だ。
それは間違いなく限定された自由ではあるが、誰も彼らを笑えない。
なぜなら、明日死ぬかもしれないからだ。
突拍子も無い発言だが、私もあなたも、確実に死ぬ。
そしてそれは明日かもしれない。
私の言っていることは厳然たる事実だ。
わけのわからない労働で思考を停止したまま死ぬのか、
やりたいことをやりたいだけやって死ぬのか。
現代の日本には生と死についての言説が足りなさ過ぎる。
なんとなくそれは65歳以上の人間にのみ関わりがあることになっている。
しかし我々は間違いなくこの生を生きているのだし、
そうであれば、死ぬこととも無関係ではいられない。
だが、我々はあたかもそんなこととは無関係であるかのように暮らしている。
不思議だ。何かまずい気がする。いや、確実に駄目だろう。
自覚して生き方を変える人間も幾人かは出てくるかもしれない。
自覚してもどうしようもなくて自ら命を断つ人間も出てくるかもしれない。
そんな少数者たちの入れ替わりはあれども、
今日も明日も都会は規則正しく間違って、正常に稼動してゆく。
そんな世田谷の車窓から。
朝もはよから都営線&メトロに乗り込んだ。
私の通勤経路は23区内でありながら座席が空きまくっているので確実に電車に座れる。
しかし今回はルートが違うため、都営線やメトロを利用した。
彼らは甘くなかった。
ぎゅうぎゅう詰めである。肉と肉のぶつかり合い。ピーマンの肉詰めと同レベル。
朝日が差し込むちょっと温い鉄の箱の中では、
押し込まれた働き蟻達がそれぞれの視線をあらぬ方向へ向けている。
時間が経てども車内は快適になることなどなく、
停車するたびに個人のスペースは狭くなるばかり。
都会の片隅で毎日起きている、こんな何気ない出来事。
でもこの出来事だけで「人生は素晴らしい」と吹聴してまわる馬鹿への反証には十分だ。
こんな毎日ではそもそもを疑ってしまう。
そもそも毎日の仕事という苦行を耐えることもそうだし、
それへ向かう手段にも耐えなければならない理由というのは何なんだ?
耐え続けて得られるものは寸志のみ。失うものは計り知れない。
この事実によって大勢の人間が今すぐ死ぬとは思えないけど、
こんな日常を繰り返したいと思っている人間など数%もいないことは明白だ。
少子化の前に殺人件数や自殺者数が、
この程度で済んでいる不思議さに注目すべきではないか。
電車は目的地について人々を吐き出す。
吐き出された人々は疲れた顔で、もっと疲れる仕事場へと出かける。
何かが間違っている。あるいは一切が間違っている。
私はそんなことを考えながら用賀駅へ降り、郵便局へと向かった。
向かう途中、パチンコ屋の前で並んでいる若者たちがいた。
時刻はAM9:45。おそらくパチンコ屋の開店を待っているのだろう。
堕落者か落伍者か。しかし彼らの方が明らかに自由だ。
それは間違いなく限定された自由ではあるが、誰も彼らを笑えない。
なぜなら、明日死ぬかもしれないからだ。
突拍子も無い発言だが、私もあなたも、確実に死ぬ。
そしてそれは明日かもしれない。
私の言っていることは厳然たる事実だ。
わけのわからない労働で思考を停止したまま死ぬのか、
やりたいことをやりたいだけやって死ぬのか。
現代の日本には生と死についての言説が足りなさ過ぎる。
なんとなくそれは65歳以上の人間にのみ関わりがあることになっている。
しかし我々は間違いなくこの生を生きているのだし、
そうであれば、死ぬこととも無関係ではいられない。
だが、我々はあたかもそんなこととは無関係であるかのように暮らしている。
不思議だ。何かまずい気がする。いや、確実に駄目だろう。
自覚して生き方を変える人間も幾人かは出てくるかもしれない。
自覚してもどうしようもなくて自ら命を断つ人間も出てくるかもしれない。
そんな少数者たちの入れ替わりはあれども、
今日も明日も都会は規則正しく間違って、正常に稼動してゆく。
そんな世田谷の車窓から。
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